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歩きスマホと横断歩道の見切り横断は本気で危険だと思った

雑記

先日、青山にあるオフィスで仕事を終えて、渋谷駅まで向かうため、あたしは青山通りを歩いていました。夜の8時前、あたりはすっかり薄暗くなっていました。とある交差点で信号が赤になり、あたしは横断歩道の少し手前で立ち止まりました。その時、背の低い女子高生があたしの右横を通り過ぎ、スマホの画面を一所懸命覗き込みながら、ふらふらと横断歩道に近づいて歩いて行きました。右折車が数台、目の前を通り過ぎて、右折信号が赤になると、その女子高生はまたふらふらと危なっかしい足つきで車道に足を進め始めました。歩道は赤信号であるにも関わらず、いいえ、それどころか次に青になるのは交差する車道の信号であるにも関わらず、その女子高生はスマホの画面に釘付けになったまま足を進め、横断歩道を半分くらいまで進んでしまいました。そして、交差する車道の信号が青になりました。車道には数台の車が並んでいました。先頭の車の、たしかタクシーだったと思いますが、運転手さんが右手からふらふらと近づいてくる人影に気が付き、クラクションを鳴らしました。ようやく女子高生は状況を把握したようでした。すこし残念そうな仕草をしながら、横断歩道を歩いて戻ってきました。

歩きスマホは危険です。女子高生も、一度や二度くらいは、そのように注意を受けたことがあるはずです。それでも、スマホの画面をずっと見ていたいという気持ちが上回ってしまうのでしょう。その心情も理解できます。スマホに夢中になってしまうのはしょうがないです。いいえ、歩きスマホはとても危険ですしやめて欲しいです。とても危険なんですけど、それとコンボになったときにものすごく危険なのが、横断歩道の見切り横断です。もうすぐ青になるだろう。そういう思い込みで横断歩道を歩き始めるのは、大事故につながりかねません。もしかしたら、本当に女子高生が車に轢かれるのを目にしていたかもしれませんでした。車のクラクションが鳴った時、あたしの頭は真っ白になり、そして直ぐに状況が非常に危険だったことに気が付きました。周りは薄暗く、車の窓枠の陰にその子が隠れて運転手が気が付かなかったら、発進した車に轢かれていた可能性も十分にありました。

しばらくして冷や汗も収まった頃、なぜ女子高生が横断歩道の中央まで歩いてしまうまでに、あたしは声をかけて止めなかったのかということを考えていました。あたしはハッとしました。あの時なんと声を掛けたらよかったのだろう。あぶない?ちょっと待って?とまりなさい?とっさの出来事で声も枯れてうまく引き止められなかったでしょうし、いくら危険回避といっても女子高生に向かっていきなり声をかけることに一瞬のためらいを感じてしまったかもしれません。ここまで考えると、あたしは次第に、あたし自身に何が出来たかということよりも、赤信号を歩いて行く女子高生を止めることができなかった数名の大人たちという構図の怖ろしさについて、考察を始めていました。横断歩道の手前に、あたしを含めて数名が立っていました。なぜ一人として注意を促さなかったのでしょうか。社会というのは弱者を守るものです。赤ちゃんは両親家族はもちろんその存在の周囲の人たちが支えてあげて大きくなっていきます。それが直に中学生、高校生くらいになると、本人に自立の意志が芽生え、周囲の人には干渉されたくないゾーンを持ち始めます。知らない人に声をかけられたらもちろん警戒します。スマホを一所懸命除く様子は、今声をかけるなオーラ全開です。さらに、近年の声かけ事案も、見知らぬ中高生に対して注意を掛けづらくしています。それでも、社会は弱者を守らなくてはいけないはずなのです。

スマホに夢中で赤信号を渡る女子高生を止めなかった大人たちという構図が、もはや現代社会においてありふれたものであるとしたら、それはとても恐ろしいことです。他人と深く関わりたくない、面倒事に巻き込まれたくない、そして自分の身を守るのは己しかいないといった考えが、ある意味で歪んだ形で蔓延する共同体における個々の関係は、弱者を守ることができないほど希薄化してしまっているのかもしれません。